年表

宇和島市にて

1974出生。
1978伊吹幼稚園入園。行くのが嫌で、こたつの足にしがみついて泣いていたらしい。
1981市立住吉小学校入学。校訓は「大きな石は俺にもてころ」。
1987市立城北中学校入学。校庭に森がある。校舎は木造。冬には窓ガラスの隙間から雪が教室に入ってくることも。
後輩にオーイシマサヨシがいるらしい。
1990県立宇和島東高校普通科入学。
1991父親(職業:高校教師)が同じ高校に転勤してくる。
1992父親がいる生物準備室の隣が自分のクラスのホームルームに。毎日が授業参観。

東京大学(学部・大学院)

1993東京大学理科一類入学。上京。小金井市の県人寮に住む。試験の時間を勘違いして寮でマリカーをやっていた結果ドイツ語でD(不可)をとる。その後の努力でなんとか平均点合格。
1994教養学部の間に色々みた結果、成績がそれほど良くなかったので悩んだが物理学科進学を目指す。
進学振り分けの第一段階選抜は不合格で、さらに悩む。第二段階選抜でなんとか理学部物理学科進学内定。
1995理学部の講義は当時1コマ120分だった。物理学実験のパルス技術でミューオンの寿命を測ったりした。
素粒子物理に興味があって、理論は無理だな、実験なら楽しめそうかな、と思って志望分野をなんとなく決める。
1996じゃんけんに勝ち、出来たばかりの相原研究室に4年生特別実験で配属。日本で新しい衝突型加速器実験ができるということと、新設の研究室なので好き勝手自由にやれると思ったことが主な志望動機。
当時は実験なら前期も後期も同じ研究室を選べたので、同期の樋口氏と共に1年通じて相原研に所属。旧理学部1号館2階の何もない部屋にMacを買ってもらって遊んでた。
1997学部の卒業式は研究室からそのまま普段着で行ったらみんなスーツとか着ていて、物理学科でもそんなの着るんだ、と思ってびっくりした。
大学院に進学して、KEKでのBファクトリー実験、Belleに参加。それまで国産技術で開発していたシリコンバーテックス検出器(SVD)の設計が夏にポシャり、実験開始まで2年弱のところで急いで設計変更が始まっていた模様(当時は大変さがわかってなかった)。僕としては、そのおかげで色々経験することができた。
秋からSVDの組立方法の開発をKEKで開始。接着剤を何分混ぜるのがいいか、とか条件を変えながら試す。東カウンターホールで接着剤を混ぜて冬を越す。
1998春から夏にかけて、ひとり浜松ホトニクスに派遣されてSVDの組み立て・試験作業。浜ホトの人たちと同じ昼飯を食べ、出勤するとひっくり返す名札も作ってもらってすっかり一員に。
秋からは組み上がったSVDのコミッショニングのためKEKに滞在。朝6時まで頑張って、次は9時集合、とかいう日々。
1999修論を書いて、博士課程に進学。その合間に3月に結婚。
6月にBelle実験開始。が、青春の2年間を捧げたSVD(v1.0)が7月に加速器からの放射線で破壊。データを取ったのはわずか1ヶ月半。 悲しむ暇もなく、急いでスペア(v1.2)と交換。(当初は”v1.1″の予定だったが、インストール前のテスト中に一部が壊れたため急遽分解・再建設してv1.2に)
SVDの運用と並行して、SVDの位置較正(アラインメント)方法の開発、GEANTシミュレーションの調整、キャリブレーションを適用するソフトウェアモジュールの管理、放射線耐性の高い読み出しASICの開発・試験、などを進める。
2000この頃だったと思うが、研究が思うように進まず思い悩んで、進路を考え直したほうがいいかと思い当時の助手に相談。まあもう少しやってみたら、と言われてなんとなく続ける。そのうちに研究で進捗があって、まあもうちょっと続けるかと思う。基本的にそんなことの繰り返しである。
SVD、2度目の交換(v1.4)。当初はちょっと放射線耐性が増したASICを使ってv1.5と名付ける予定だったが、組み立て前のテスト中に電圧のかけ方が悪く僕が一部を壊してしまい、急遽一部を古いモジュールと取り替えてv1.4ということになった。歴史は繰り返す。
研究室の他の人たちが大阪で開催されるICHEP国際会議(分野で最大の会議のひとつ)に向けて東京で解析合宿をするなか、一人KEKに出向して交換作業。SVDの実機のことを誰よりも知っていると自負していた頃。検査のためKEKから大学への運搬途中にSVDのモジュールを抱えて上野公園から不忍池に降りる階段を転げ落ち、自分は怪我したけどモジュールは守った、とか。
D2の秋からようやく本格的なデータ解析を始める。
2001B中間子系でのCP非保存の発見のために、1ヶ月の合宿生活を冬と夏の2回敢行。どのタイミングで仮眠を取れば一番効率がよいか、とか相談。その時期は一緒に住んでいる妻の起きている顔をほとんど見なかった。SLACのBaBar実験に取得データ量で差を付けられていたので、7月23日に国際会議で発表するのにぎりぎり7月6日までのデータを使って解析するというスケジュール。
フレーバータグをかけて崩壊点分布を見ると詳しい解析をするまでもなくはっきり非対称になっていた。とにかくどこかに間違いがないか、考えられるだけの(他の人々からのリクエストも含めて)クロスチェックをやった。僕の担当したKLのモードは特に非対称性が大きく出ていて、間違いじゃないのかとかコメントが集中していた。解析から外せとか言われていたという噂も後で聞いた。そんな雑音に前線が振り回されないようにしてくれた人たちには今も感謝している。
2002D論を書いて博士号取得。研究室の同期ふたりが次の職をあっという間に決めていく中で残されて焦るが、傍目にはふらふらしているようにしか見えなかっただろう。
とりあえずBの物理は一番美味しいところをやったので次は他のことをやろうと考えていた。当時はずっととにかく海外に出るんだと言っていて、海外の研究所のポスドクをいくつか受けに行って(落ちたものもあるが)オファーももらっていた。京大のニュートリノグループの助手の公募に応募したところ採用してくれるという。海外での経験と迷ったけれど(京大の教授の西川さん自身が「う〜ん、海外の経験も重要やしな〜」とか言うし)、西川さん・中家さんと研究したいと思ったこともあり京都に行くことを決めた。
という間に11月にBelleのビームパイプが真空漏れを起こし、ついでにSVDも少し修理することに(v1.6)。主力部隊は翌年度インストール予定のSVD2の建設で忙しかったので、余剰人員の僕や既に他のグループに移っていた人が呼ばれて担当。交換作業に慣れすぎて、前回の経験をもとにしたスケジュールよりも前倒しで作業が進んだ。この頃の原体験から、検出器は作ってもすぐに交換したりアップグレードしたりするのが当然、という感覚になったのかも。

京都大学(助手・助教)

20032月に京都大学に助手として着任。大学の周りは家が多いということで密度の低いところを探していって岩倉に住む。引越し直後に雪が降り続いてびっくりしたけど、いいところだった。
ニュートリノのことは全く知らず、周りの院生の方がよほどよく知っている状況なので、CCQEって何?というところから必死に勉強。K2K実験のSciBar検出器の本格建設の真っ只中で、特に読み出し回路のまとめ役をすることに。使っていたASICがSVDで馴染みのあるものだったのは本当に助かった。
夏にSciBarを作っている間に長男誕生。前後はしばらく京都-つくば-愛媛を行ったり来たり。自分たちが作った装置で最初にニュートリノ反応が見えた時は感動した。
2004SciBarグループのコンビナーになり、慣れない仕事をなんとかこなす日々。秋にはK2K実験終了。
T2Kのミューオンモニターの設計を始める。とはいえ設計なんてどうやったらいいかわからないので、悩みながら模索を繰り返す。
いろいろ悩んでいた時期で、ある日コンビニで財布を開いたものの支払いにいくらお金を出せばいいかわからなくなった時は、ちょっとこりゃ精神やばいなと思った。
2005アメリカFermilabでMiniBooNE実験をやっている人たちから、SciBar検出器を持ってきて実験しないかという打診があり、検討を始める。
浜松ホトニクスが新しい半導体光検出器(今のMPPC)の開発を始めるかも、という噂を聞きつけ、リニアコライダーのグループ等が相談に行くのに同行させてもらう。T2Kの前置検出器での使用を念頭に共同開発を始める。
この頃、Higgsの探索も重要だな、と思い一時期その方面で海外で職探しをしていたりしたが、それは結局うまくいかなかった。
2006Fermilabでの実験(SciBooNEという名前になった)の準備とT2Kに向けた準備研究を進める。K2Kでのニュートリノ振動最終結果のまとめの論文の重要部分を書いたり代表で投稿したりして、まあやれるかも、という気分になってきた頃だったかも。
SciBar検出器を一度解体して、米国へ輸送する。もちろん解体して再利用することを考えて設計していないし、プラスチックシンチレータだけで15トンのものなので色々一筋縄ではいかない。当時のポスドクと大学院生の人たちの奮闘のおかげでなんとかなった。
SciBooNE実験のために夏に1ヶ月ちょっと、秋から1年ちょっと、家族でFermilabに住むことに。到着した日の夜中に火災報知器が誤報でけたたましく鳴り、慣れない所でわけもわからず屋外に避難したのも今ではいい思い出。
20076月からSciBooNE実験のデータ収集開始。提案から約1年半で開始、というのは、最近の素粒子実験では驚異的なスピードではないか。おかげで実験の承認の最終的な公式連絡が来たのがデータ収集を始めてしまった数ヶ月後だったりして笑った。
SciBooNEはこの分野の実験としては人数も少なく、現場に常駐している人間で実験の「やり方」を知っている人間はさらに少なかったし、京大の大学院生/ポスドクが中心で動かしていたので、かなり融通が効いて楽しめた。当時の院生でこの実験がなければやめていたと言った人もいたけれど、僕も似たような状況だったかもしれない。T2Kの準備がたいへんな時期にこんなのやってどうするんだ、と周りから言われても強く推進した中家さんとそれをサポートしてくれた人たちのおかげである。
当時のFermilabはまだTevatronが動いていて、日本人もCDFグループの人がいたりD0でポスドクをやっている人がいたりして、頻繁に食事したり家族ぐるみの交流があったりした。ここで仲良くしていた人たちとの人脈はその後も大事な資産になっている。
実験が始まって運転が定常化し、一方でT2K実験に向けた建設が佳境に入るということで、12月に日本に引き上げ。
2008Fermilabの冬は-20℃くらいになることもあり、湿度が非常に低い。日本では問題なく動作していた電子回路だが、静電気がたまって時々不具合を起こす事態に。当初は実験ホールの床に水を撒いて湿度を上げる、という対症療法を試みた。日本に帰ってしばらくたって、2月にシフトでFermilabに行ってみたらまだ水を撒いていて、対処に結構な労力を割いていた。いやいやちゃんと解決しようよ、と言って加速器の作業中に原因を調べて、グラウンドの接続を改善したところ起こらなくなった。
夏まではSciBooNEのために何度か米国との間を往復。予定していた以上の量のデータを得て8月にデータ収集は終了。もったいないのでもっと続けたら、という話もあったようだが、何しろT2Kを始めるので日本グループはそんな余裕がない。他の人たちが責任持ってやる分には装置は使ってもらって構いませんよ、と言ったらしいのだが、結局誰も手を上げず夏に終了・撤収となった。
秋からはT2KのINGRID検出器の組み上げとミューオンモニターの最終検査・インストール。毎週月曜日の学生実験を終えたらJ-PARCに行き、金曜の夜に京都に戻って週末は家族と過ごす、京都と東海村を往復する生活がしばらく続いた。
20094月23日にT2K実験の最初のビーム。ミューオンモニターの信号がオシロスコープで見えた時は本当に感慨無量だった。実は翌日4月24日にジョブインタビューのために東大に呼ばれていて、寝不足でヘロヘロになりながら準備した。ニュートリノビーム初生成の記念写真にうつっていないのは、帰りの常磐線の車内だったからである。インタビューは教授・准教授全員の前でセミナーして質疑応答。大学院入試の面接を思い出したがこちらの方がさらに厳しい。
若干の経緯はありつつ、11月1日から東大の准教授(任期6年)に。

東京大学(准教授)

20103月までは単身赴任で、東京-東海村-京都を行ったり来たり。
T2Kの物理ランも始まり、T2Kで成果が出た時に備えて次の計画の実現に動く必要があると考え、春頃からハイパーカミオカンデの感度スタディを始め、関係者を集めて定期的な打ち合わせを開くようになる。NNNという次世代大型ニュートリノ実験に関する会議のシリーズを秋に富山でやるので、それまでに一通りの結果を…という目標を立てて、なんとかまとめた。
T2Kでは前置検出器のランコーディネータや解析グループのコンビナーをしながら、大学の各種業務も自転車操業でなんとかかんとか、という状況。
とかいいながら、カナダTRIUMF研究所でπ散乱を測定するDUET実験にも参加したり。
20113月11日には国際会議のためインドにいた。ヒマラヤを遠くに眺める会場で講演を聞いていたところTwitterのTLがすごいことになり慌てた。
5月にKEKでT2Kの全体ミーティングをやって、電子ニュートリノ出現探索の結果を出すかどうか議論。結局2.5σで論文を書いた。早く結果出して正解だったと思う。
9月にはハイパーカミオカンデのLetter of IntentをarXivで公開。T2Kの結果を受けて、次の計画を実現させるべき、ということでいいタイミングで出せた。長基線振動実験のパートはほぼ僕が解析して、文章も図も書いた。
20126月に京都でニュートリノ国際会議開催。準備も当日も大変だったが盛り上がって良かった。予定より参加者が多かったのと財政的なサポートを色々受けられたので、最後は潤沢になった資金をとにかく食事などに投入。バンケットは太秦映画村の貸切。ちょんまげのかつらは次回日本で開催するときのために保管してある。
2013長女誕生。
3月に、そろそろT2K前置検出器のアップグレードを考えませんか、という話を同僚のコンビナーや実験代表者にしてみたところ、いいアイデアだからお前やれ、ということで議論を始めることに。
薄いプラスチックシンチを組み合わせて水にジャボ漬けして、ニュートリノと水の断面積を測ろうという計画もわいわいと議論。和菓子の箱に似ているから「わがし」、という市川さんの発案を受けて WAter Grid And SCIntillator という適当な略称を提案。
2014ハイパーカミオカンデを正式に議論してもらえる場所がないよね、J-PARC PACに提案を出してみようか、ということで、提案を取りまとめてPACに提出。…したら、「こういうことを相談もなくやられたら困るんですよ」とか、おこられが発生。J-PARC P58として今でもPACのリストには残っている。 独立した委員会(HK PAC)で審議してもらうことに。
2015T2Kの前置検出器アップグレードを検討する正式なワーキンググループが発足。まだこの時期には色々なオプションを検討していて、特に標的兼検出器の部分は僕が責任者だけれど自信のある案がなかなかなくて悩み続けた。
ハイパーカミオカンデも、正式な国際プロトコラボレーションを立ち上げて、1月に発足シンポジウム。
2016 
2017 
2018 
201912月16日付で教授に昇進。

東京大学(教授)

20202019年度の補正予算でハイパーカミオカンデの建設予算がつき、正式にプロジェクトがスタート。HK検出器グループのリーダーを務めることになる。春から夏にかけて50cm径光電子増倍管の選定、調達に関して4方面くらい同時進行の調整。
T2Kの前置検出器アップグレードは、HKと同時にやるのは無理なので、CERNのNP07として正式に認められ、J-PARCのPACでも承認されるところまで持っていってコンビナーを降板。
並行して、新型コロナ感染症が蔓延し、学内の重めの役目が複数降ってきて、なかなかヘビーな1年だった。
2021 
2022 
2023 
2024